信州・須坂の紹介
須坂市は、長野県の北部善光寺平にあります。根子岳など2千メートル級の山々を境に群馬県に接し、周囲にはレンゲツツジが100万株も群生する
五味池破風高原 、北アルプスを望むリゾート地 峰の原高原
、日本の滝100選に選ばれた荘厳な 米子大瀑布 など、自然に恵まれています。西は詩情豊かな千曲川を境に県都長野市に接しています。北には白根山系松川渓谷などの源流が流れ、北部扇状地の中で人口およそ54,000人の地方中核都市です。
(須坂市観光協会 026-215-2225)
古代旧石器人を祖先に持ち、古くから千曲川に注ぐ扇状地に文化が開けました。古墳時代には東日本最大級の積石塚古墳がつくられ、中世には清和源氏の流れをくむ井上氏や、高梨氏、須田氏の武士団の根拠地となりました。近世になって須坂は、堀家一万石の館町となり、今でも足軽長屋や、鐘楼などが、館跡に残り、その回りに大小の寺や寺町が配置されていて、往時をしのばせています。上州や江戸への近道として、大笹街道、谷街道、草津道の交差する須坂は、当時物流と交通の要衝として、地域の中心となりました。
江戸時代から養蚕や座繰り製糸が盛んに行われ、明治初期には用水路の水車を動力源とした機械製糸が始まり、やがて蒸気機関によって一躍発展をとげました。明治後期から大正時代にかけては近代シルクロードの起点の町として、岡谷、諏訪地方と並ぶ、日本有数の製糸の町に成長しました。
(須坂市立博物館 026-245-0407)
当時、絹の糸は横浜港からヨーロッパからアメリカに運ばれ、世界の女性たちを魅了しました。耳を澄ましてみると「カッタカタ」と糸繰り枠が回る音や、坂の町を駆ける糸娘たちの下駄の音が聞こえてくるような気がします。
しかし、アメリカではナイロン繊維が発明され、昭和の大恐慌後、製糸工場の倒産などにより、製糸業は急速に衰退していきます。養蚕業に代わるものとして、周辺の農村地帯では、大正9年の恐慌後に植えられたリンゴの作付けが増え、やがて巨峰ブドウに代わり、農産物のリンゴやブドウが、現在の須坂を代表する産物になりました。
第2次大戦後の須坂は、昭和29年に市制を施行し、昭和34年からは工業団地や住宅団地を造成し、富士通を中心とした電子機器の企業城下町として、また長野市のベッドタウンとして発展成長を遂げてきました。
須坂の土蔵造りの建物は、こうした歴史的な背景の中から生糸の保管蔵や店蔵として、江戸時代後期から昭和の初期にその多くが建てられました。これらは製糸業が盛んだった明治中期から大正時代にかけてのものです。
(須坂クラシック美術館 026-246-6474)
建物の外観は、黄色の砂ずり仕上げ、白塗り、黒塗り、なまこ壁などがあります。軒の裏も、あげ裏塗りや、三段塗り仕上げなど変化に富んでいます。また基礎は、ぼたもち石積みと呼ばれています。須坂の歴史的町並みは、長い時間かけて形成され、江戸時代の武家屋敷、明治の洋風建築、製糸で繁栄したころの土蔵造りの町家、鐘楼、望楼、うだつ、3階建ての繭蔵、あるいは社寺建築や路地、水路などたくさんの時代の遺産が町に点在しています。なかでも
臥竜公園 は、日本の百選に選ばれたねじれ松と桜の名声が高く、市民の憩いの場所として賑わっています。
毎年7月に行われる須坂の祇園祭には、御輿を先頭に11基の笠鉾行列が巡行し、文化遺産として当時の繁栄を今に伝えています。
( 笠鉾会館ドリームホール 026-246-7100)
現代のめまぐるしい社会の中で、多くの特徴を持つ歴史的町並みも存続が危ぶまれてきました。そんな中、昭和61年に地元の市民による「信州須坂町並みの会」が結成され、保存運動が始まりました。結成と同時に地道な啓発活動をはじめ、町並みフェストや、町並み修景に優れた建築物をたたえる、「町並み景観賞」を創設し、研修会を行いながら、全国の先進地の現状を学んでいます。
須坂市では、官民一体となって町並み調査や保存対策調査などが行われ、全国でも珍しいミニ博物館設置事業の導入や、歴史的建造物の保存修復事業への補助拡大をはじめ、町並みめぐりコースや街路整備事業、あるいは蔵造りのイメージ公共施設等の新築など、町並み修景事業に取り組んでいます。
( 須坂市役所 026-245-1400)
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